close

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

■1月の歴史事件簿
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆―――――――――――◆
源 実 朝 暗 殺  
◆―――――――――――◆

建保7年(1219年)1月27日午後8時,鎌倉幕府3代将軍・源実朝が右大
臣就任の祝賀のため参拝した鶴岡八幡宮からの帰途,参道脇から突然現れた
数人の僧侶姿の男たちに斬殺された。「親の敵はかく討つぞ」と叫び,実朝
の首を刎ねたのは,2代将軍であった源頼家の遺児・公暁である。

公暁は,父・頼家に代わり将軍となった叔父の実朝を仇敵と恨み,実朝を
排斥すれば自らが将軍になれると考えていた。公暁の乳母は,幕府の重鎮・
三浦義村の妻であったことから,父を失脚させ殺害したのは実朝一派の仕業
であると,義村ら周囲の者から吹き込まれていたのかもしれない。

もともとこの日の参拝には,幕府の最高実力者である執権・北条義時(実
朝の母であり公暁の祖母でもある北条政子の弟)が太刀持ちとして同行する
ことになっていた。ところが義時は,直前になって体調が悪くなったことを
理由に,その役を実朝の側近・源仲章に委ねている(仲章は実朝とともに斬
殺された)。そのため,義時は事前に実朝暗殺計画を察知していたのではな
いかとみられている。

計画を知りながら義時がこれを阻止しなかったのは,将軍としての実朝を
必要としなくなっていた(むしろ邪魔になっていた)からであろう。生まれ
つき体が弱く武芸が得意でなかった実朝は,歌人としての資質には恵まれ,
「金塊和歌集」の編纂などで知られるが,必ずしも政治に無関心なわけでは
なかった。和歌を通じて知った朝廷政治を理想と考え,これを実践しようと
した節が窺える。

しかし,こうした実朝の朝廷重視の姿勢は,土地の支配権をめぐって朝廷
方と対立していた鎌倉武士団にとって,歓迎されざるものであった。武家の
棟梁たる将軍が朝廷に近づきすぎ,朝廷に取り込まれてしまうことを恐れた
義時は,実朝に代わる傀儡将軍を立てることを考えていたようだ。実朝の暗
殺は,義時にとっても好都合だったのである。

一方,公暁の不幸は,実朝と一緒に義時を討てなかったことにある。執権
の義時を葬って一気に幕府の実権を握ろうとした三浦義村の目論見が崩れた
時点で,公暁の命運は決まった。自らの保身に回った義村は,公暁の口を封
じるためただちに彼の抹殺にかかる。唯一の味方であると信じていた義村の
軍勢に攻められ,実朝の暗殺からわずか数時間後,公暁は19年の短い生涯を
閉じた。

実朝,公暁が相次いで命を落としたことで,名門源氏の直系は絶えた。こ
の後幕府は,京都から幼年の公家を将軍に迎え,北条氏が事実上の支配者と
してその権力を強固なものにしていくのである。

                                                     (古木尾 忍)
arrow
arrow
    全站熱搜
    創作者介紹
    創作者 shilango 的頭像
    shilango

    瘋視界

    shilango 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()