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■2月の歴史事件簿
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平 将 門 の 乱 鎮 圧
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東京のビジネス街の中心,千代田区大手町1丁目1番地に,祟りを起こす
といわれているミステリースポットがある。平安時代中期,権力を欲しいま
まにしていた京都の貴族たちを震え上がらせた東国の武将・平将門の首塚が
それだ。

昭和の初め,この首塚の上に政府が官庁を建設しようとした折,関係者の
病死,変死が相次いだため,仮庁舎を撤去して慰霊祭を行ったという事実が
ある。また,太平洋戦争後,進駐軍がこの地に広大な駐車場を建設するため
整地を行った際,ブルドーザーが突然横転し,運転手が死亡するという事故
も発生した。このような不可思議な出来事はほかにも報告されており,将門
の祟りであると畏れられ,21世紀の現在でも首塚は保存されている。

平将門は,下総(千葉県北部,茨城県東部,東京都東部)の国の豪族で,
桓武天皇の末裔にあたる。当時の関東地方は,朝廷や貴族たちの完全な支配
下に置かれ,民衆は重税と労役にあえいでいた。朝廷から派遣された「国司」
と呼ばれる役人たちの中には,私腹を肥やすために不当な税の取立てを行う
者が少なくなかったようだ。

こうした現状を目の当たりにした将門は,農民たちに原野の開墾を推奨す
るとともに,製鉄の技術向上に力を注いだ。製鉄の技術は農具だけでなく武
器の製造にも活かされ,将門は武力の強化を図りながら,朝廷の支配から脱
する道を模索していたと思われる。

民衆の不満が高まる中,国司の厳しい税の取立てに反抗しお尋ね者となっ
た藤原玄明を保護した将門は,天慶2年(939年)11月,ついに自ら1,000の
兵を率いて決起。3倍の兵を擁する国司軍を破り常陸国(茨城県の大部分)
を制圧したのを皮切りに,民衆を味方に加え下野国(栃木県),上野国(群馬
県)を支配下に置いた。そして12月19日,将門は自ら「新皇」(新しい天皇)
と称して即位,朝廷の支配を脱した独立国を宣言するに至る(ちょうど同じ
頃,西国でも朝廷に不満を持つ豪族・藤原純友が乱を起こしており,2つの
乱を併せて「承平天慶の乱」という)。

将門の反乱にあわてた朝廷は,「将門を討てば貴族にする」という異例の
官符(通達)まで出して事態の収拾に努める。これに呼応したのが,一門同
士の領地争いでかつて将門に父(将門の伯父にあたる平国香)を殺された従
兄弟の平貞盛と,近江三上山の百足退治伝説で知られる猛将・俵藤太こと藤
原秀郷である。

天慶3年(940年)2月14日,田起こし(農耕作業の準備)のため将門が兵
を解いた間隙を縫って,平貞盛・藤原秀郷の連合軍が将門の本拠地である下
総の石井(坂東市)を急襲。乱戦の最中,将門は一本の矢に額を射抜かれて
絶命する。

将門の首は京都の七条河原に晒されたが,3ヵ月経っても腐敗することな
く大きく目を見開いたままであったといわれ,後に胴体を求めて東方へ飛び
去ったと伝えられる。将門の首塚とされるものは,大手町以外にも全国各地
に何ヵ所か存在している。

(古木尾 忍)
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